【感想】乃南アサさんの『涙』を読んで | ネタバレあり

『涙』を手に取ったきっかけ

なぜたどり着いたのかは分からないけれど、この本の感想で「昭和の東京オリンピック前後の時代を一緒に追っていくようで面白い」というコメントをいくつか見た。あらすじも気になっていたので、メルカリで「買っちゃえ」とポチった。

到着したら、装丁があまり好みではなかったので手に取るのを一度ためらったが、積読が本作くらいになったので読みはじめた。結論、すごく好きな本になった。上下巻あり、合わせて

あらすじ

上巻

「ごめん。もう、会えない」。東京オリンピック開会式の前日、婚約者で刑事の奥田勝から、電話でそう告げられた萄子は愕然とする。まもなく、奥田の先輩刑事の娘が惨殺され、奥田が失踪していたことも判明。挙式直前の萄子はどん底に突き落とされた。いったい婚約者の失踪と事件がどう関わっているのか。間違いであって欲しい……。真実を知るため、萄子はひとりで彼の行方を追った。
参照:新潮社(https://www.shinchosha.co.jp/book/142525/)

下巻

川崎、熱海、焼津、田川……わずかな手がかりをもとに、萄子は必死に婚約者の跡を追った。やがて捜査から、ある男が重要人物として浮上するが、勝が逃亡する理由は不明のまま。勝への思いが消え入りそうな萄子だったが、当時米領の沖縄・宮古島に彼がいる可能性を大阪で知る。島でわかった慟哭の真実とは? 1960年代の出来事・風俗をちりばめ、男女の一途な愛を描いた傑作ミステリー!
参照:新潮社(https://www.shinchosha.co.jp/book/142526)

旅をしているような気持ちになれる(ネタバレなし)

主人公は萄子(トウコ)。物語は夫と娘がいて穏やかな生活を送っている場面から始まる。娘の離婚騒動からふと昔のことを思い出し、ストーリーはメインとなる1960年代にさかのぼる。

1964年の東京オリンピックが始まる直前、萄子は婚約者の勝(マサル)から「もう、会えない」という言葉を残して姿を消されてしまう。勝を諦められず、いてもたってもいられない萄子は、勝がいると思われる日本各地の場所を訪れる。最初は神奈川・川崎。テレビを見ていたとき、川崎のドヤ街(日雇い労働者向けの簡易宿泊所が立ち並ぶ街)を映した映像に勝のような姿を見て、川崎へ行くことを決意したのだった。

そこでは見つからず、以降は人からの情報を頼りに静岡の熱海・焼津、福岡の筑豊地方と移っていく。熱海であれば温泉街、焼津であれば漁港、筑豊では炭鉱など、それぞれの場所での暮らしが描かれていて、旅をしている気分になれた。

1960年代の時代背景がいたるところに散らばっていて新鮮(ネタバレなし)

作中では「(1964年)十月一日、東海道新幹線が開業した。『ひかり』は四時間、『こだま』は五時間で東京と大阪を結ぶ。」とある(上巻 p.87)。今となっては当たり前になった新幹線が真新しい時代、そして今「ひかり」は東京と大阪を3時間程度で移動するのに、当時はもっと時間がかかっていたこと。それでも「夢の超特急」と言われていたこと。当時の人々の喜びが目に浮かぶようで、こちらも嬉しい気持ちになった。

また定年間近の刑事・韮山(ニラヤマ)は、「あの戦中から戦後の混乱期でさえ、立派に生き抜いてきたではないか。何人もの友を喪い、明日をも知れぬ我が生命を思い、焦土と化した東京を眺めて、とても立ち直れないのではないかと思っていたのに、気がつけばすべて過去になった」ともある(上巻 p.191)。登場人物の言葉ひとつをとっても、戦中・戦後復興の真っ只中を生きてきた人の言葉は重みがある。今はもう、そのような言葉を発する人はほとんどいないだろう。昭和の日本とその時代を生きた人々が、どういう道を辿ってきたかも知ることができた。

萄子の弟・彰文はビートルズにハマっている。
当時は1955年から1975年まで続いたベトナム戦争の最中。
沖縄はアメリカに統治されていたため、行くにはパスポートが必要。
暮らしのあらゆるところで、今となっては「過去」になったことが溢れていた。

心理描写が細かく丁寧(ネタバレあり)

萄子が勝を「会いたい、真実を聞きたい」一心で追いはじめた当初と、数ヶ月・1年と月日が経つごとに、その想いが「薄れていているのでは?」と戸惑うところ。また勝が失踪したあとに付き合い始めた相手に抱く感情。戻って来れる場所があるという安心感と、それで勝を諦めきれない葛藤が、苦しいほどに伝わってきた。

娘ののぶ子を失った刑事・韮山は、当初は勝を犯人だと思っていたゆえに彼を恨んでいた。しかし、次第に勝は犯人じゃないと気づき、萄子に頭を垂れて「奥田(勝)を疑って悪かった」と謝った。「怖い顔」と言われていた韮山も娘が凄惨な事件に巻き込まれ、だんだんと弱々しく、穏やかになっていった。彼は、捜査中に名前が上がった少女「ルミ」を家庭に迎え入れて、「のぶ子の代わりにはしないが、のぶ子にできなかったことをしてやろう」と考えるようになる。悔しさは消えないはずなのに、時間が経つにつれて現実と向き合い新たな生活を切り開き、存在意義を感じようとする様子が見て取れた。

慟哭の真実(ネタバレあり)

ついに沖縄・宮古島のはずれで勝を見つけた萄子。彼の口から聞いた真実は、おおむね萄子や韮山が予想していた通りだった。しかし「勝は逃げるような人じゃない。なぜ逃げて、真実を話さなかったのか」という萄子からの訴えに対して知らされた、衝撃の事実とは…。

事件当日、犯人らに捕まった彼は知らない間に覚醒剤を打たれ、あっという間に依存症になってしまった。現場から逃げたあとも、覚醒剤を求めてしまった。もはや刑事として働くことは不可能で、目をかけていた青年を助けるためにも逃げるしかなかった。以来、川崎、熱海、焼津… と土地を転々としている間も、ずっと続けていたらしい。

逃亡していた2年間、勝はどう思っていたのだろうか。「あの事件さえなければ、薬さえ打たれなければ、まだマシな展開になっていたんじゃないか」と思ったのではないだろうか。いや、それでも犯人が「(勝の)婚約者も狙う」と言ったらしいので、いずれにせよ萄子と一緒にはならなかったかもしれない。それでも、身も心もこれほどボロボロになる必要はなかったと思う。正義感が強い勝だからこそ、中毒になったという現実は耐えられないものだったんじゃないかと思ってしまう。